消費されないもの

the copyright of images in this image by iroiro

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少し前に、友だちと「消費」と「消耗」の違いについて話すことがあった。その時の話題は「恋愛」だったので、「それは消費じゃなくて消耗だよ。消費は使うと消えてなくなるもの、消耗は使ってもなくならないけどすり切れるようなものに使う。だから恋愛は消費じゃない」と説明した。

かなり前から、情報の消費のスピードがどんどん加速しているなと感じてはいた。インターネットの浸透、SNSの爆発的な普及がもちろんそれに加勢しているのだと思うけど、そのような場所に文章を提供することを仕事にしていると、時々あっという間に消費される記事を生み出すことに虚しさを感じることもある。それに自分だって、オンライン上の情報を消費して、ほんの一瞬ありがたがったり、面白がったりしても、すぐに忘れていたりする。

文章に関して言えば、これまで自分の中で「情報=消費されるもの」で「物語、そうでない文章=消費されないもの」という線引が、なんとなくあったような気がする。

書き溜めたブログをまとめてzineとして発行した『New York Coffee Shop Journal』は、いわゆるガイド本のような雑誌のようなものなので、私の中では「消費されるもの」だと思っていた。だから中身の情報が古くなったと自分で感じてからは、これ以上増刷しないでくださいと頼んだ。

今年翻訳出版した『グルジ』は、私が最初に英語版を読んだ時から「ここに書いてあることは日本語でも残したい、廃れるものではない」と思ったから翻訳出版したかったわけなので、消費されないものだと思う。

最近、私の『New York Coffee Shop Journal』を大事に読んでくださっている人に実際に会った。その読み込まれ方を見て、私が情報で消費されるものだと思っていたものが、実はそれだけでもないのかもと思うようになった。

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例えば、インスタにアップされている写真は、フィードで見て「いいね」して終われば消費なのかもしれないけど、それをプリントアウトして額装して壁に飾れば消費にはならない。食事だって、当座の空腹をしのぐためにファストフードやコンビニで買って食べたものは消費だろうけど、丁寧につくられたもの、素敵なプレゼンテーションで盛り付けられたもの、空腹を満たす以外の満足感や体験を与えてくれたものは、かたちがなくなっても自分の中に残り続けるから消費ではなくなる。

そんなことを考えていると、雑誌やオンラインに載っている情報も、情報としての消費期限を超えてなお、別の価値を残すことができれば消費ではなくなるのかもしれないと思うようになった。それに、長く残り続けたという偶然性(ときには必然性)によって、消費ではない価値が生まれることもある。廃刊になった雑誌にプレミア価値がつくように。

2008年にヨガのブログを始めた頃は、純粋に自分が思ったことや考えたことを外に出してみたいという気持ちだけでやっていた。その後、文章を書くことを仕事にするようになってから、消費されるような情報に関わる文章で対価をもらうようになると、自分個人のブログに書く文章には、消費されないような何かがあるだろうかと考えたり、情報に関わるならアフィリエイトなど何かしらの対価をつけなければ(というかついて欲しい)と思うようになっていた。気づかないうちに。

何も考えずに好きなように文章を書いて外に出すという行為からなんとなく遠ざかっていたのは、そのせいなのかなと思った。

でも、ここ最近の「消費されると思い込んでいたもの」が「消費されないものになる可能性」を目の当たりにして、また少し実験がしたくなってきた。とにかく私の中にあるものを一旦外に出してみること。それが消費されるかされないかは受け取った人が決めるのではないかという推測の行方、何が残って何が残らないのかを見てみたい。なので、あまり深く考えすぎず、自分の中でこれは消費でこれは消費じゃないと決めつけたりせずに、とりあえず外に出していってみようと思う。



Yuko Matono