父の幸せな人生

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幸せな人生でした。

父の遺書はそう始まっていた。仕事にも家族にも恵まれて、十分幸せな人生だったと。

3月上旬にいつもより長い旅に出たはずの私は、滞在先のインドで父が脳梗塞で倒れて入院したという知らせを受けて、3月下旬には日本に帰国した。

病状は思わしくなく、3日間で2度も脳梗塞をおこしたせいで、父の脳はかなりの部分がダメージを受けていた。手足を思いのままに動かすことはおろか、話すことも、食べることもできない。目や口を動かすことはできても、見えているもの、聞こえているものを、どれだけ認識しているかは定かではないし、仮に認識していたとしても意思表示をすることができない。手術直後には微かに残っていたように見えていた意識も、徐々にどのくらいあるのかわからないほど衰えていった。

父は元気な時から遺書を書いていて、家族全員に手渡して、きちんと口頭でも説明をしてくれていた。だから、父が延命治療を望んでいないことは家族全員の周知事項だった。それでも、突然「延命 or NOT」みたいな、文字通り人命にかかわる選択を迫られると、人は怯むし、悩む。残った家族全員がまったく同じ気持ちというわけでもなかったし、父の意思や遺書の受け取り方が違うところもあった。それに、「延命治療」という言葉の解釈をどこまでにするかという、細かな現実的な選択にも頭を悩まされた。

私の祖母(父の実母)は、7年以上寝たきりの後に亡くなった。最初は軽い認知症のような、意識や会話がおぼろげな症状で、それから身体がうまく動かなくなって、ベッドの上にいる時間が長くなり、周りの人と会話をする時間がどんどん減っていって、その合間に肺炎になったりして、そして気がついたらベッドで寝ているだけの人形みたいになってしまっていた。

起き上がって歩いたり、テレビを見たり、自分の口から食べたり、話をしたりすることはできない。ただ息をして、寝ているだけ。でも、胃ろうをしていたので栄養は十分、身体面の数値は正常。祖母のことを、医師が「身体的には健康です」と言うのを聞いて、「健康って、幸せって、一体何なんだろう?」と考えずにはいられなかった。そんな7年だった。

幸せな人生でした。

遺書の冒頭、この言葉を見た瞬間に「ああ、これはお父さんがお祖母ちゃんに言って欲しかった言葉だ」とわかった。この一言は、これからやらなければならない重大な決断の背中を押してくれる。だから、父はこの言葉を遺したのだと気づいた時、少なくとも私だけは、延命治療はしないという父の意思を尊重して貫こうと決めた。

でも、内面では「哲学 vs 感情」のぶつかり合いとせめぎ合い、日によって気持ちが揺らぐこともある。父の顔を見る度に、「本当にこれでいいのかな?」「私たちのやっていることは本当に父が望んでいることなのかな?」そんな疑問が頭をよぎった。

介護という現実的な問題の対処に追われながら、哲学的な問いにも悩まされている時に、

ある人は「正解はないんだよ。正解は、ない」と言い、

別のある人は「あなたが悩みに悩んで決めたことなら、それが正解だよ」と言った。

正反対の言葉が、同じ真意をもって私の心に迫ってきて、こみ上げるように涙が出た。そういう言葉をかけてくれる人がいることがありがたかった。

8月12日に父は永眠した。

「最期を家で看取る」、「自宅で家族に見守られて亡くなる」というと、穏やかに息を引き取ったのだろうと想像する人もいるかもしれないけれど、間近で見ていた私には苦しそうに見えた。

父は酔っ払うと「ぽっくり死にたい」なんて(本音でもあったけど)軽々しく言っていて、私はそんな父を「人間はそんな簡単には死ねんとよ」とよくたしなめていた。人生の最後の最後に「人間は本当に簡単には死ねんもんやな」と実感しながら苦笑しているようにも見えた。そういう自虐を笑いにするのが好きな人だったから。

こういうことを誰もが読めるところに書くと、不謹慎だとか言われてしまうのかもしれないけど、ちょっと際どいことを笑いにしようとして、大して受けもせず周りを引かせて、最後は一人で笑っている、そういう父の血を受け継いだということにしておいてください。ここは私の個人的なブログでもあるし、何より私は、書くことでいつも自分を癒やしてきたので。

Yuko MatonoLife